ぎふきょうそブログ小屋

岐阜県教職員組合のブログです。

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【被災地ボランティア報告】三週間たっても混乱の中だった被災地 =郡山・石巻= 

3月11日に発生した東日本大震災により被災された皆様にお見舞いを申し上げます。

岐阜教組は、被災地の復興支援と子どもたち支援のために、義捐金活動・救援物資活動などを行ってきました。そして、4月始めからゴールデンウィークにかけ、10数名の組合員が被災地でのボランティアに参加をしました。その中のお一人、鷲見多津子さん(岐阜支部)から報告が届きましたのでご紹介させていただきます。
201104被災地2
三週間たっても混乱の中だった被災地 =郡山・石巻=
岐阜支部 鷲見多津子

・笑顔の中に心の傷深し子どもたち
・淀みたる空気 陽も差さず窓開けられず
  『ビッグパレットふくしま』居住区域は
・安否貼り紙避難所廊下 眠れぬか
  壁にもたれ机に伏し二十人は超ゆ 二十七時
・ラモスにはしゃぎし直後
「これ一つだけなんよ 持って来れたのは。」
  原発避難 涙も見せず
  両手で隠れしほどの赤きポシェット
・寄り添いて起居せし村の子ら
  大都市校に分散転入 如何にせむ
・管理職と共に訪れし スーツ姿の教員ら
新学年の教材をば「自習せよ」とその胸中
・見遙かす瓦礫とひしゃげし車 泥まみれ
   重機ほぼ無く 手つかずの石巻(4月5日)
・阿修羅のごとし自治体職員 疲弊困憊
 津波死のみならず 合理化・人員削減の故多大なりや
・現地にはニーズ多々有り 物資届きつ
絶対不足はマンパワー



3月12日夜高木さんから電話あり。「春休みの旅行キャンセルしぃへん? 行っとる時やないやろ。」 そうだ!4月7日からの非常勤しかないのなら、被災地に行こうと思えば終業式後からでも行けるんだ!
 自閉症や発達障害の子達が、避難所で適応できずに苦しんでいる姿が目に浮かぶ。母ちゃん達が、周囲に気を遣っておろおろしてる姿が目に浮かぶ。

学校長をとおして市教委にも思いを伝えてもらったが進展無し。その後、思い余って教育長にも直接、避難所で困っているであろう子どもたちの事を聞いて貰った。一週間後、教育長から直々に電話有り。新聞でも、自閉症の子達が避難所で布団かぶって泣いてるとの報道を見た、(中核市としてのつながりで)郡山市教委に何度も電話したが、まだまだ混沌の様子だと。
岐阜教組岐阜支部交流会でも、ボランティアの呼びかけがあった。市広報では、ボラは社協に申し込めと。それぞれに連絡取ったが、いずれからも、障害児者支援のニーズがあるのは重々承知しているが、まだコーディネートできていないとの返答。社協では、何度も調べてくださったりコーディネートできていない現状をわびてくださったりした。
 「ボラについて〈個人的に出かけるのは遠慮を〉の報道も有るが〈寝食ガソリン等自己完結。現地に迷惑かけないこと・手伝えそうなことが無く役に立たなければ、そのまま帰岐する〉ということではどうだろうか。」と提案したら「ボランティア保険だけはかけた上で、どうぞ気を付けてがんばってきてください。」との激励を貰った。
 組合OBからのカセットボンベ等(岐阜市内ではどこをさがしても物が無く、被災地優先なので入荷未定)寄付に心強くし、高木さんと2人、車中泊で行く用意が調った。寝袋、食料、水以外に、子ども達と遊ぶための簡単な工作材料や絵本、大道芸道具なども積み込む。

【いざ郡山へ】
4月2日夜に岐阜出発。東海北陸→北陸道→磐越道へと。心配していたガソリン供給も高速道路では東北道も通常どおり営業。近づくにつれ、SAでの節電等震災対応が様々あった。災害支援幕の車もたくさん見かけた。会津の山々はまだ雪深く、木々にも芽吹きが見えず。
 途中SAで仮眠、郡山市着は、3日昼。郡山市役所向かいの災害対策本部にて、ボランティア登録をしたが、「障害児者支援はニーズはあるのはよくわかっているけれど、コーディネートできておらず忸怩たる思いです。各避難所での必要性は痛いほど分かるので、是非とも個々の避難所に訪ねて行って欲しい。」と、熱く訴えられた。小さな避難所では、「本人達がほぼやっていて、手は足りているから。」と言われた。
 “ビッグパレット”という聞き覚えのある避難所へ向かった。市内のガススタンドは通常営業しており、行列なし値段ふつう。地震での破壊跡は、ぱっと眼には気づかぬほどだったけれど、工事中の遮蔽幕がかけられたビルがけっこうあった。スーパーの駐車場は凸凹で通路の支柱が乱杭状態、市街地では立ち入り禁止テープ囲いの木造住宅もあちこち、屋根にブルーシート・窓に段ボールガムテープ止め、基礎部分の段差。松屋、吉野家、すき家、ココ壱、某ステーキハウス、地域スーパー、銭湯等々、営業中。郡山市民生活はほぼ通常にもどりつつあるのか?
201104被災地7

【ビッグパレットふくしま、ここでも…】
“ビッグパレットふくしま”着。とてつもなく広い敷地巨大な施設、何百台もの駐車(避難してきた人達の車)、遠路はるばる長崎県等からも自治体支援車が来ている。90㎝幅の鉄扉からのみ出入りする人々(郡山は第一原発から50㎞しか離れていない)、出入り口付近にはタバコを吸う大人達に混じって子どもの姿もちらほら。鉄扉のなかは狭い廊下で、安否情報や風呂屋の場所等が所狭しと貼ってある。“愛犬預かります”などの貼り紙も。そういえば隣に駐車してあった車の中にワンちゃんがいたっけ。(車内で飼われていた犬は、大型犬も小型犬もさまざま。)
 施設内の一室に、富岡町、川内村の役場がまるごと移転してきていた。被災証明発行や各種相談等でごった返していた。
 富岡町臨時役場でも、受付の若い女性が私たちの話を聞いてけれたが、上司と相談した結果、「今日のボラ受付は終了、障害児者のニーズはつかめていません。明朝7時から一般ボラ受け付けます。30人かぎり。」との返答。
 しょうがないな。海岸沿いで支援の届いていないところがあってお手伝いできればよし、無ければ止むなしと移動しかけたが、子どもたちがあちこちでたむろしている。
 「せっかくだから、持ってきた工作を子どもにプレゼントしてみたら。」と高木さんに勧められ、ストーローロケット(女性部学習会で教えて貰った簡単工作)を飛ばしたら大喜びしてくれて「キッズコーナーでみんなに見せよっと」「何?キッズコーナーあるの?これ簡単につくれるよ。連れてってよ。」狭い通路を通ったり、何千個もの支援物品が山積みされている中をくねくね通ったりしてキッズコーナーにたどり着いた。おりしも、ピエロ姿のバルーンアーティストが、色とりどりのバルーンで子どもたちを楽しませていた。

【キッズコーナーへたどり着く】
 キッズコーナーでは、コーディネーターから「ボランティアとしては、お話や折り紙、サッカーなどで楽しませてくれる人や一緒に遊んでくれる大学生はいっぱいいるが、教員OBは是非いて欲しい。」と引き留められた(私たち以外に教員OBは一人だけだった)。
 午後は遊びタイム、午前は学習タイム。
 お話を聞いたり読書したり、おもちゃやゲーム盤等での遊びは、六十畳敷きくらいのマットコーナーで。マットの周りはぐるりとおもちゃ・ゲームや本、折り紙・色鉛筆等を入れた段ボールが囲む。全て全国からの支援物資。遊ぶものや学習用具材料・ドリルプリント類等には困らず、トランプに至るや段ボール何箱分もがすでに有り、その上にまだ連日届いた。
 学習コーナーは長机30椅子100脚ほど。学習コーナーとマットコーナーの間にチャンバラなど暴れられるコーナーも作ってあった。物資倉庫の一隅を子どもたちのために開けて貰ってキッズコーナーが成立したばかりとのことで、《おもちゃや工作で作ったものは、持って帰らない(避難所は狭い…一人毛布一枚分のスペース…から親がいやがるとのこと)。本は、貸し出しもできる。午前は9時から12時まで、午後は1時から5時まで。出たり入ったりは無し、時間が来たら一緒に出る》などのルールも今やっとできつつある状態。
 学習コーナーの向こうは、なんとスクリーニング会場!ガイガーカウンターで測ってもらっている人もいた。除染する前なのだから、放射性物質が付着しているかもしれないのに…。
 「こう見えても、郡山もずいぶん地震の被害があるのですよ。このビッグパレットもひどく壊れました。物資倉庫のスペースの向こうの壊れかたもひどいものです。是非見ていってください。」そして、〈原発を“東京のため”と受け入れてきた。…福島は、貧しかったから……。〉と忸怩たる思いをも語った某議員。
 支援のコーチとどこかでサッカーして来た子達が帰ってきた、総勢30人ほど。親の中には、放射能汚染を恐れて外には出したがらない人も、かなりいると聞いた。このキッズコーナーに来させることすらためらう親もいた、「私、午前中だけなの来れるのは。お母さんがダメと言うの。」
お勉強は遅れるといけないから、学習コーナーに行っても良い。その他の時間は自分の傍らにずっと居させたい…。
201104被災地6

【子どもたちは…】
子どもとの会話は難しかった。
 「この子中1だって。」と紹介された子に「部活なにやってるの?」と聞いたら「わかんない。」「うん?入ってなかったってこと?何部があった? …、あ、そうか。まだこれからか、中学校。6年生だったんだね。6年生といえば修学旅行かぁ。私たち岐阜市では京都・奈良に行くんだよ。」と言ってしまってから、“しまった!”その子の顔の無表情! 今までの小学校のことも(もちろん、卒業式のことも…。私自身はあの時、卒業式練習終えて体育館から戻ったばかりだった、きっとこの子達もそんな時間だったはず)これからどこに入るかわからない・見知らぬ中学校のことも、この子の心の傷に触れることなのだ。
 おチビさんたちはどんなことにも無邪気にはしゃぐ。風船パンチなどをして遊んだ。大きい子も小さい子も体を使って遊んだり、ストローの超簡単工作は飛びついたりできる。けれども、ブンブンこまには、おもしろそう!と言って寄っては来るものの少し挑戦してすぐあきらめる、粘れない。地域ボランティアによる静かな昔語りには寄り付かない、折り紙すら、手間取るものは見にも来ない、大学生のお姉さん達にずっとおんぶされている子も何人かいた、
 先ほどの中学生は、翌日何人かと連れだってキッズコーナーへ意気ようようと現れた。「どお?何か気が付かない? ほらほら、かわいくなったって言ってよぉ!」と。外に来ていた支援の美容師さん達から髪を切って貰ったんだよと、みんなにアピール。けっこうおやんちゃなのだという。この子にして、まだこの時期、学校のことはタブー、当たり障りのない日常の会話ではしゃぎたいのだ。

 翌日学習時、小学生も中学生も、新学年の算数・数学ドリルをひたすら解いている。楽しい導入も、分かりやすくなるための手だても教えられないまま…。この子達の先生が与えていったとのこと。中学校の教員達がスーツ姿で管理職と一緒にコーナーに現れた。海辺の小さな学校の子どもたちを、バラバラにして、見知らぬそれも都市部の学校に預けなければならないその胸中…。
 みんなが学習し始めて間もないのに、机によじ登って落ち着かない子がいた。ドリルは半分ほどやってあるけど、乱雑な文字、飛ばし飛ばしの回答。聞いてみると新3年だと。ここまでやれてるんだから続きやったら?と誘ってみても「嫌~。」「じゃあ、2年生でやったかけ算の復習しようか。」「はい、かけ算はなんでもできます!。」百マス計算は気が散ったので、十マスにしてストップウォッチで計ったら大ノリで、ばっちり仲良くなれた。ランドセル贈呈式に来ていた報道かなにか知らないけれどカメラマンに、その子と遊んでるところをを断りもなく至近距離からバチバチ撮られた(一応抗議した)。
 翌日には、その子のばあちゃん母ちゃんからも相談を受けることもできた。
 高木さんは、子どもの相手をしたり、次々と届く物資の仕分けもしたりしていた。
201104被災地5
※子どもの顔は加工してあります。

【避難所生活断片】
 大きな避難所なので、プレゼント贈呈式がTV中継されたり、有名人たちが慰問に訪れたりする。
 ラモス瑠偉が来て、サッカーボールをプレゼントしてくれるという。ラモスの写真を撮ったりサインを貰ったり、子どもだけでなく大人達もハイな気分。
 ボランティア仲間が蹴球貰い役になったので、私に小さなポシェットを預かってくれと言う。役目をを終え戻ってきて「ねぇねぇ、これ一つだけなんよ、持って来れたの。このウインドブレーカーはこっちで買ったんだよ。」はしゃいだ続きで初めて語ってくれた。両手で隠れるほどの小さな薄っぺらいポシェット、きれいな赤い色。
 思わず「車は車は?」と尋ねた、車には乗って来たと言う返事。「何㎞だった?」3㎞だと。勤務帰りでそのまま直ぐに逃げたと。「こっちで泊まっていたんだよね、夜もっとおしゃべりすれば良かった。」と手を握る。聞くと富岡町で長年保育園や児童館などで保母として働いてきた人だという。
 富岡町職員もキッズコーナーの世話役だった。みんな自分自身も避難してきていて、ずっと働きっぱなしなのか? あの臨時役場の中にいた職員達も、狭い部屋に2自治体が入り、戦場のようなごった返しの中で疲れ切っているようだった。

 駐車場で車中泊したとき、夜中に施設内のトイレに行った。3時ころ。鉄扉を開けると、廊下は電気がこうこうと灯り、20人以上もの人たちがいた。壁にもたれ、机に伏し、安否情報を見たり、NTT無料電話コーナーにいたり…。朝日、毎日、福島民報などの朝刊が、どさっとひとまとめにして廊下に置かれた、無料配布? もう朝刊の時間。
 子どもの忘れ物取りに付き添って居住区域に行ったことがある。
 キッズコーナー・物資倉庫の重い大きな扉を開けると、広いロビーのような廊下。大勢の人が行き交うその足下、埃の舞うその床に直接、敷き布団・毛布を敷いて横たわっている人々、《介護コーナー》の文字があった。
 その子の勉強道具は、イチゴパック用の段ボール2段重ねにいれてあった。おじいちゃんの寝ていたスペースは、敷き布団をミカン箱などでぐるりと囲み身の回りの品々が入れてあった。50家族くらいなのだろうか、天井は高いけれど窓が一つもない厚い壁だけの部屋、空気は生温かくよどんでいた。
 トイレでは、こんな声が聞こえたこともあった。「おかあさ~ん、出ないよぉ~」幼稚園くらいの女の子。お母さんが個室に半身を入れて、声をかけながらさすっていた。
 避難所食糧事情。
 炊き出しが時々(2日昼はカレー、3日昼は具だくさんの豚汁)あったが、それ以外は、毎回物資倉庫で貰うおにぎりや菓子パンなどだけのようだった。自分たちで煮炊きできる状況ではなかった。90㎝鉄扉から大勢の人がいつも出入りしていたが、大きなレジ袋を持って帰ってくる人も多かった。きっと買い出しだろう。コンビニは開いているが品数が少なかったと嘆いている人がいた。夕方ボランティアが帰る頃には、「家に帰る人は、頼むからこれ持って帰って」と。和生菓子、菓子パンなどの山。
 施設敷地の片隅(屋外)に、自衛隊設営の風呂(野戦用)があった。
 夜、濡れた長い髪をバスタオルで拭きながら、上気した顔で、笑いながら何人かで連れだって戻ってくる女の子達を見かけた。中学生か高校生か…、修学旅行の夜の子どもたちを思い出させる笑顔だった。

【津波災害現場へ】
 キッズコーナーで一緒に支援していたk県教員OBは「ここの人たちがどんな思いをしてここに来てるか、知ってから来たかったから、海岸の方まで行ってから来た。」と。
 郡山では、地震の被害も余り見えず、ましてや津波の被害は見えなかった。 しかし、私自身迷っていた。《見る》という行動を取って良いものかと。
 でも、被災された人たちの悔しさや怒りは、被害のむごさをこの眼でまざまざと見、体感してこそわかるものがきっとある、整備されてからではわからない・TVや写真からだけでは伝わりきれないこの人達の無念さを少しでも味わい、正当な怒りとして私も共有したいと思った。
 そのために私たちも、行こう。女川原発は余り壊れなかったと報道されているが福島とどう違うのか、石巻を通って女川に向かうことにした。
201104被災地

 東北道は、《段差有り》表示がたくさんあった、所々に真黒な道路面、白線はとぎれとぎれ、破壊の跡。この短時間によく直せたなぁ。SAで隣り合わせたのは、NTT静岡の工事車4台。20~30代の若者8人組、岩手県南部に復旧支援に行くところだと言う。電柱倒壊がとんでもなくたくさんあるんだと。彼らは鍋釜持たず。聞くと、もう先に一班向こうで仕事をしているし、宿舎もあるからと。でもいつ帰れるかは未定だとも言った。
 仙台の手前のSAで石巻辺りのことを尋ねたが、高速道路は全線開通しているが、一般道はよくわからない。女川まで行けるかどうか、近くまで行かないとわからない。
 仙台南部道路から三陸自動車道に入るころ、津波跡がありありと見え始めた。西の方は、陶器の釉薬をかけたような一面の泥平原になっていることが、高速道路を運転中なのに見て取れた。その中に農道だけが走ってる、根ごと横倒しの大木が田んぼの真ん中にころがっていた。東を見ると、遙か海岸沿いは住宅跡らしき瓦礫が散乱している様子も。市街地にさしかかると、なんと!あまり被害無さげな町並みビル群、その落差に驚く。三陸道からは海の方は見えなかった。ブルーシートの屋根も余り見かけない。

【手つかずの石巻、その惨状】
 石巻港ICから一般道へ下りた。
 もはや瓦礫のただ中。ガードレールには草や紙など雑多なものがからみつき、泥埃がもうもうと舞い上がる、辛うじて車が通れるだけに瓦礫が除けてある道。右手の川の中や土手には船や瓦礫。木造住宅の材料や家財道具が瓦礫、瓦礫、瓦礫、瓦礫。息を呑む光景。
 大きな交差点の信号が消えている、警官が手旗で交通整理。女川へ向かう私たちは渋滞無く通行できたが、逆にICへはダンプやトラックで延々と渋滞。
 道路左右は瓦礫の山とひしゃげた車がごろごろ、松林の中あちこちに車がささっている。濡れたような泥まみれ。松並木から吊り上げようと重機が一台。赤さびの鉄筋の根元を見せて横倒しのコンクリート電柱。海岸沿いから左折する道には、トラックが埋まるほどの大泥水たまり。
 岐阜市中心部すべてを瓦礫にしたかと思えるほどの広さに重機四台もいただろうか? 自転車で通った人が三人ばかりいた、他には手旗信号の埼玉県警警官。人影が殆ど見あたらない。町中の方には信号も点き人も店舗も少しはありそうだった。
 現地の人たちの悔しさ切なさ憤りの片鱗を感じさせてもらい、この地で何もせず帰る申し訳なさがいっぱいになり、女川を諦めることにして、高台の手前でUターンした。私たちは、写真は撮れなかった。無神論を自認しているはずが、心の中で「南無阿弥陀仏」と唱えていた私だった。
 同じ道を帰った。
 石巻は海岸沿いは大きな工場群。海からの津波が広い駐車場を越え、そのまま住宅街に流れ込んで、波にもまれもまれしたのだろうか、車ほどの高さで〈の、の字〉形の錆びた鉄筋、それはコンクリート電柱の根元だった。工場の壁から突き出た巨大なH鋼。こんな大きな力で、住宅も人間も破壊されたのだ。日通の駐車場では、大型トラックが何台も、紙工作のようにくしゃくしゃになって放置されていた。道路脇に放置された車全てに貼り紙、車体番号のように見える。
 工場脇のプレハブ小屋周りに十人ほどの人影があった、工場再開にむけて労働者達が働いていたのだろうか。
 四ツ切り画用紙2枚ほどの真新しい看板を見つけた、《がんばろう石巻》とあった。新しいものを見たのはこれだけだった。胸に迫った。そうだ《なめるな、東北》の看板もどこかで見たぞ。
201104被災地3

 原発労働者達や農業漁業者達を、見捨てないぞ、子どもたちを先生達を、自治体職員達を見捨てないぞ、この地の空気を伝えねばと思いつつ、約800㎞の道を運転して帰った。
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( 2011/05/25 10:35 ) Category 未分類 | TB(0) | CM(0)
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